勝海舟記念下町浅草がん哲学外来Café

コンパッション・コミュニティー

 最近、テレビばかり見ている私。酷暑でへとへと、こもりがちな日々でしたが、水泳、陸上、バスケットと興奮の日々を満喫でき満足でした。9月にはいってすぐ、自力でオリンピック出場権をかちとった男子バスケットチームの試合に学生時代バスケ女子だったこともありすっかり魅了され感動の余韻がしばらく続きました。身長差が圧倒的有利な競技ですが、小さいながらも一瞬の隙をぬってゴールにきりこんでいく雄姿、圧巻のボール回し、最後まで諦めない強い心……スポーツのもたらす感動を実感しました。
  そんなこともあり、しばらくこの男子バスケットの栄誉を称える報道が続きましたよね。
  こういうニュースは日本全体が活気づいて本当にいいものです! そんな中、9月の「勝海舟記念 下町(浅草)がん哲学外来」の「オンライン がん哲学メディカルCafe」(以下、「がん哲カフェ」と表記)が、9月4日夜に開催されました。
  今月のがん哲カフェは、終活ジャーナリストの金子稚子氏(ライフ・ターミナル・ネットワーク代表)を講師に迎え、「健康って? 死=不健康なのか? 『コンパッション・コミュニテーズ』から考える死と生」をテーマに話されました。

 次々にカタカナ語が登場する中で、日々文字と向き合う仕事をしているとはいえ、知らない言葉は多くあります。それでも知っているふりをする辛さといったら……! 今回も、「コンパッションって?」「「コンパッション都市って?」と思いながら調べる暇もなくオンライン講義へ突入。しかも本日の講義の元となる「コンパッション都市 ~公衆衛生と終末期ケアの融合」(アラン・ケレハー著)も読んでいなかったため、意見を求められたらどうしよう?とびくびくしていましたが、金子さんは丁寧に言葉を構築し解説してくれました。

 「コンパッション」とは、医療・介護・心療などの分野で、「慈悲」「思いやり」という意味で使われています。誰もがもっている(もっていたい)もので、特に介護の現場では、思いやりをもった寄り添う心がベースとなっているため「コンパッションに根差したコミュニティーづくり」が求められています。
  「コンパッション都市」とは、「健康都市」の進化型として終末ケアの充実を目的としています。 ところで、「健康とはどういう状態」でしょうか?
  WHOの定義によると「健康とは、病気ではないとか弱っていないとかいうことではなく、肉体的にも精神的にも、そして社会的にもすべてが満たされている状態になること」だそうです。
  ……そうすると、自分は健康とはいえないのでは?と思う方は少なくないはずです。 事実、私は幸いにも重篤な病気には罹患していませんが健康な状態とは思えません。 では、「健康」の対語のように思われている「死」とはどんな状態でしょうか? 健康ではない状態ならば、不健康な状態ということになります。ずっと闘病中だった方が死を迎えた場合、肉体的に弱っていたのですから健康ではなかったでしょうが、精神面や社会面で不健康だったとは限りません。
  愛する人々に囲まれて手厚い介護をうけ、経済的困窮もなく、いつこの世を去ることになっても不安がない状態になっていれば、病気とはいえ穏やかな状態なのではないでしょうか。

 「死がどんな状態?」という質問は、現在を生きる私達は死んだ経験がないだけに答えられないものです。ですが、私たちは大事な人が安らかに最期の時を迎え、痛みや苦しみのない世界にいることを望みます。神様しかわからない人の死に対してできることは限られていますが、思いやりをもって大事な人を助けることは特別なスキルがなくても可能です。
  コンパッション・コミュニティーは死・喪失・グリーフ……誰もが避けて通れない問題を自分事としてうけとめ手助けし支援するコミュニティーです。当事者の苦しみ・辛さ・悲しみを思い共感するだけでなく、その思いをどのように繋げるかを常に考え、一人ひとりが行動することで、コミュニティーは「コンパッション都市」として広がっていくことでしょう。

 ここまで講義のメモや音源を確認しながら書いてきました。超高齢社会の日本はおひとり様社会、身寄りもなく孤独に死んでいく人も少なくありません。浅草のがん哲カフェ主宰者の宮原富士子さんは台東区の在宅診療に携わる薬剤師で多くの患者さんをもっています。チームでコミュニティーを支える仕事に長く従事していて、たくさんの看取りも経験されています。服薬指導をするだけでなく、薬剤師の職域をこえた患者さんの細かいリクエストにもできるだけこたえられるように努力をされています。 私も以前、家族の在宅医療をお願いしたことがありますが、医療・介護従事者の普段の仕事ぶりに接する機会をもつことはとても参考になります。

 介護をする/死んでゆく/グリーフを抱える……これらは一瞬では終わらず長く続いていくものです。それだけにコミュニティーの支えがあれば、誰にでも平等に訪れる死を、健康的と思える気がしますが、いかがでしょうか?

※参考:一般社団法人がん哲学外来 http://gantetsugaku.org/learning/

 

【2023/8/7 がん哲カフェ】(文・桑島まさき/監修・宮原富士子)

 

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